ソフトバンクホークス 闘病とバッシングとアゴ(?)、数々の苦難を乗り越えてきた内川聖一の歴史

大分工業高校時代の1年秋に、骨に穴が開く骨嚢腫を左足かかとに患い、3回の手術を受けて2年夏に完治するまで1年近く闘病生活を送ることになりました。
3年夏の大分県予選では準優勝に終わり甲子園出場はなりませんでしたが、高校野球生活実質1年で5割近い打率と通算43本塁打を記録します。
2000年のドラフト会議でベイスターズから1位指名を受け入団、2008年に右打者史上最高打率(.378)を記録して首位打者に輝き、更にFAでホークスに移籍した2011年にも首位打者を獲得して、史上2人目の両リーグ首位打者の快挙を成し遂げました。
1.度重なる病気、怪我
高校時代に骨嚢腫を患い、プロ入団3年目には、原因不明の体調不良によって右目の視力低下とボールすら握れないほどの右手の握力低下を引き起こし、戦線を離脱してしまいます。
後に、この体調不良の原因は、アゴが曲がったことにより頸椎の神経を圧迫していることが原因と判明し、オフの契約更改で年俸にアゴの整形費用を上乗せされました。(アゴの整形はせず、奥歯の噛み合わせを矯正することで解消しました。)
その後も、精神面からくるイップスや膝の故障、風邪をこじらせて入院などが原因で度々戦線離脱おり、ホークス入団1年目にも数度にわたって左足腿を痛め、規定打席到達すら危ぶまれるほどでした。
ベイスターズ時代には怪我や病気の多さから、一部ファンの間では多村仁選手と並ぶ「スペランカー(※)」として認知されていたようです。
(※)ファミコンゲーム「スペランカー」の主人公がちょっとしたことで死んでしまうことから、すぐに怪我や病気で戦線離脱する選手を揶揄する呼び方です。
2.FA移籍でバッシング
FAでホークスへ移籍後、TV番組でのインタビューにおいて「横浜を出て行く喜びを感じられる」と発言、その他にも数々のベイスターズに対するネガティブな発言が物議を醸しました。
一部関係者やファンから「言いたい放題行って出て行く」、「育ててもらった恩を忘れた」とバッシングを受け、さらにホークスとベイスターズの違いという問いに答えただけで「横浜をバカにしている」と言われ、横浜スタジアムの交流戦では激しいヤジを浴びせられました。
実際には悪意があるわけもなく、「横浜に育ててもらった」、「横浜だからこそあの成績が残せた」という想いを強く持っており、自分の発言によってベイスターズが少しでも良い方向に行けば、との想いと地元九州に帰ってこられた純粋な嬉しさからの発言であったようです。
3.8年連続3割達成、
そして3度目の首位打者へ
ホークスに移籍後は、外野手としての出場が主でしたが、2015年は一塁へのコンバートが検討され、3番を打つことが多かった打順では4番を打つ機会も増えるかもしれません。
毎年のように大型戦力補強をし、巨大戦力を誇るホークスにあっても内川選手の存在は欠かせません。
8年連続打率3割、そして3度目の首位打者さらには連続日本一へ向けて、グラウンドを暴れ回る内川選手のアゴではなくて姿に要注目です。