ソフトバンクへ電撃移籍 「平成の怪物」松坂大輔の日本復帰にかけられる期待 【背番号18】

「平成の怪物」が日本に帰ってきた。松坂大輔の8年ぶりの日本球界復帰が大きなニュースになっている。
大リーグでは中継ぎでの登板が多かったが、先発機会を求めての復帰となる。
2000年代前半のプロ野球を代表する投手の足跡と、活躍の可能性を探りたい。
1.20世紀末、時代の中心にいた選手
藤川球児(テキサス・レンジャース)、杉内俊哉(巨人)、村田修一(巨人)ら、1980年生まれの選手が「松坂世代」と呼ばれたように、松坂は常に世代の中心選手だった。
高校時代は、横浜高校での春夏甲子園制覇、夏の準々決勝のPL学園との延長17回の死闘、決勝でのノーヒットノーランなど、数多くの活躍が記録にも記憶にも深く刻まれている。
ゴールデンルーキーとして西武にドラフト1位で入団すると1年目の1999年から16勝で最多勝。
150キロ台の速球、鋭いスライダーで三振の山を築き、完投するスタミナもある。まさに規格外の怪物だった。
今では、普通に使われるようになった「リベンジ」という言葉を流行らせたのも松坂だった。まさに時代の中心にいた選手だったのだ。
その後も西武での8年間で108勝を挙げ、球界を代表する投手としての地位を確固たるものにしていった。
2.超大型契約での大リーグ挑戦、
故障との戦い
2006年のオフにポスティングシステムで大リーグ、ボストン・レッドソックスに移籍。移籍金は当時のレートで60億とも言われ、超大型契約となった。
1年目、2年目は先発2桁勝利を挙げるも3年目に故障で戦線を離脱。シーズン前に行われたWBCの影響が囁かれたが、故障はその前から発生していたものらしい。
以降は故障との戦いを強いられるシーズンが続き、渡米5年目の2011年にはついに肘にメスを入れるトミー・ジョン手術を受けた。
翌年には6年契約最終年を終えレッドソックスをFAとなりインディアンス傘下3Aを経てニューヨーク・メッツに入る。
メッツでは主にリリーフとして登板することが多く、2014年は25試合を投げている。
手術以降は球速がやや下がり、カーブなどで緩急を使ったピッチングスタイルに変わってきていた。
3.期待の大きさは「松坂大輔」
という名前の重み
日本復帰、春のキャンプインと、その知名度からメディアに取り上げられることも多い。
プルペンでの投球練習を非公開にしたり、西武時代に幾度となく対戦してきた松中のフリー打撃に登板したり、連日紙面を賑わわせている。
知名度ばかりが先行しているが、投球フォームの改良や投げ込みなど順調にキャンプを進めており、肘への不安も払拭されつつある。
気が早いファンは「何勝できるか」を議論しはじめたり、その期待度は大きい。
常に優勝を争うことを使命とするソフトバンクというチーム、6億円とも言われる大型契約もその期待を大きくさせる一因だろうが、
プロ野球ファンにとって「松坂大輔」という名前が持つ価値こそが一番の期待の源であろう。
甲子園の栄光、華々しいプロデビュー、日本のエースとして君臨したWBCにより積み重ねられた「松坂大輔」の名前の価値はそう簡単に色褪せない。
~怪物のあの雄姿をもう一度~
時を同じくして日本復帰を果たした黒田博樹(広島)と比較されることもある。
大リーグでの華々しい実績と、「男気」を見せての復帰となった黒田と比べると、どうしても都落ちの感が否めない。
しかし、我々は信じている。松坂はただのピッチャーではない。「平成の怪物」の真価を、もう一度見せてほしい。